東京高裁2020(令2)年1月21日決定

ハーグ実施法

父が母に対し、ハーグ条約実施法に基づく子の返還を求めた事案において、母が自殺する可能性があることで同法28条1項4号(重大な危険)の返還拒否事由があるとした原決定を取り消し、同事由等は認められないとして子の返還を命じた事例

出典
家庭の法と裁判31号70頁
事案の概要

日本人母とアメリカ人父は、2016年にアメリカで子をもうけ、子は出生以来、アメリカで生活していた。母は、2017年1月までに父から暴力を受けたとして病院に通院したことがあった。父は、かねてより大麻を喫煙・購入し、2018年には大麻を所持したとして逮捕された。

2018年10月、父母は、均等に子を監護すること、休暇を目的として毎年3週間子と過ごすことができること、母については子を連れて3週間日本に滞在できること等を内容とする養育計画に合意した。同年12月、母は子を連れて日本に入国したが、3週間を経過してもアメリカに帰国せず、父に対して帰国の意思がない旨記載したメッセージを送付した。2019年2月、アメリカの裁判所は、父の申立てに基づき子の引取命令を発令した。このため、母がアメリカの管轄州内に入った場合、子を父に引渡すよう命ぜられ、逮捕・収監される可能性がある。

2019年7月、父は、東京家裁に対し、子の返還を申し立てた。家事調停に付され、子を常居所地国であるアメリカに返還する方向で協議が進められたが、調停は不成立となり、決定予定日を同年9月3日とすることが告知された。その数日前である同年8月、母は遺書を残した上で、致死量を超える薬剤を摂取し、自殺未遂に及んだ。

原審(東京家裁)は、父による大麻使用が子の心身に有害な影響を及ぼすか、母が父から子に心理的外傷を与えることになる暴力等を受けるおそれがあるか、及び、父又は母が常居所地国において子を監護することの困難性について、それぞれハーグ条約実施法28条2項1号から3号の掲げる事情に該当しないと判断した。しかし、母が及んだ自殺未遂については、親権をめぐる係争が誘因となっており、子の返還を命じた場合に母が再度自殺を企図する可能性は高く、母との死別という耐え難い状況に子を置くことになるから、同法28条1項4号の規定する「重大な危険」があるとして、子の返還申立てを却下した。父が即時抗告した。

決定の概要

母には精神病の既往歴がなく、自殺未遂は発作的なものであり、また、事後の経過についても、退院後の精神状態に不安定なところはみられず、親族等が自殺予防措置を講じている様子はうかがわれず、勤務を継続することが可能である等、希死念慮が重大かつ切迫したものとは認め難い。母の無力感、絶望感等からくる自殺衝動や希死念慮の高まりは、一時的な現実検討能力及び判断力低下によるもので、精神科医師らによる医療的介入や治療行為、親族等による自殺予防の措置等により回避されるべきものであり、必要かつ有効な措置等が講じられる限り、子の返還を命じた場合に母が自殺をする可能性は高いとはいえない。以上から、上記自殺未遂の事実をもって、ハーグ条約実施法28条1項4号の規定する「重大な危険」があるとまで認めるには足りず、「この判断は本決定告知後に相手方(注:母)が再度自殺を試みる可能性自体を否定できないことによって左右されない。」として、原決定を取り消し、母に対し、子をアメリカに返還するよう命じた。(KI)